今回は番号はついているが内容的には番外編で、重要な話はない。国はデジタル化を推進しているようなので、アナログとデジタルについて筆者としては至極まじめに、体験をもとに考察してみた。ただ現在問題になっている議論からは相当ズレていることについては本人も自覚している。
小学2年くらいのとき、近くの教員住宅に若い先生がいて、そこに遊びに行ったときに人生はじめて『計算機』というものを見せてもらったような記憶がある。当時の計算機は手回し式で、横についているハンドルをぐるぐる回して計算する。
これは正真正銘の『デジタル』計算機だ。もちろんそろばんも『デジタル』計算機ではあるが、特別な修練を必要としないという点で(要はラクに計算できるという点で)、そろばんとは全く異質の機械ではある。
その後少し長じて中学生の時だったと思うが、技術の先生に『アナログ』計算機も見せてもらった。『計算尺』というやつで、目盛りのついた棒をスライドさせるだけで四則演算をすべてこなす優れモノだ。
加減乗除の『加減』は普通の目盛りを使うが、『乗除』は対数目盛になっている。この対数目盛の美しさにしばし見とれたものだ。この計算尺を構成する物質がどこまでも分割可能であり、かつ完全な『剛体』で、さらに目盛りが正確であれば、理論上は何百ケタ同士のかけ算・割り算でも正確な答えを割り出すことができるはずだ。
しかしそんな物質がこの世にないことは当然で(完全な剛体なら片方を押すと同時にもう片方の端も動くので伝達速度は光速を超え不可能だし、どんな物質も分割できない粒子でできていることは小学生でも知っている。)、実際にはせいぜい有効数字3ケタ位の計算しかできない(本来直線状の計算尺を螺旋状に巻き付けた形に改良し4・5ケタの精度を誇るものもあったようだ)が、その可能性があると思うだけで宇宙の深淵を覗いた気分になったものだ。
大変感動したが、中学生に計算尺を買うほどの財力はないし、どこに売っているのかも知らなかったので、とりあえず文房具屋を覗いてみた。すると『対数方眼紙』というものが普通に売っていたので、これを使って自分で作ってみた。
日常生活では3ケタで十分
実際、経理関係を除けば日常生活では乗除の答えとして有効数字3ケタあれば間に合うことが多く、実際、小学校では円周率を『3.14』(有効数字3ケタ)で指導する。『直径1mの樽を作るのに幅計3.14mの板を組んだら隙間ができて水が漏れた。どうしてくれるんだ!』という苦情は聞いたことがない。
円周率3.14を使って計算した円の外周や面積、さらには球の表面積や体積を有効数字4ケタ以上出して喜んでいるのは愚の骨頂なのだ。
最終的に5ケタ出す必要があるのなら最低でも3.1416を使わなければならない。もちろんその場合は半径も最低5ケタの精度で測定することが前提だ。つまり『半径50.000cm』と測定したのなら、実際の半径が49cm9.995mm以上50cm0.005mm未満である必要がある。もちろんこの『円』に見えるものが、この程度の精度で本当に『円』でなければならない。
ついでにこの辺の精度になると熱膨張も考慮しなければならない。鉄の場合なら温度1℃上がると約0.0012%膨張するので50cmなら0.006mmずれる。温度が数度ずれると、苦労して5ケタの精度で測定・計算しても何の役にも立たないことになる。
『たった』5ケタの精度で測定するのでも、綿密な準備と緻密な環境設定・精密な測定器具・卓越した技術と優秀な頭脳・豊富な知識が必要になることがわかる。『5ケタの精度で測定する』などというのは、常人にたやすくできることではない。
電子計算機が一般的になって
手回し計算機はその後電子化して『電子計算機』となったが、その後しばらくしても計算機で計算することを、計算機を『回す』という研究者もいた。今でもテレビのチャンネルを『回す』というのと(もう言わないか…)同じだ。
8ケタの『電子計算機』を初めて見たのは中3くらいだ。『液晶』などというものもない(あったのかもしれないが一般的ではなかった)ので表示は電光表示。数字がピカピカ光っていた。そのときにはすでに『√』のキーがあったように記憶している。
平方根の筆算方法を知っている60才未満の方はまずいないと思うが、これはやってみたら分かるがとてつもなく面倒くさい。さらにケタ数が増えるとその面倒くささも幾何級数的に増大する。たとえば『7の平方根を有効数字8ケタまで筆算せよ』と言われて精神崩壊せずに最後まで計算できる人がいたら聖人君子並みの忍耐力の持ち主だ。
それが数千円の電卓で『√』キーを押すだけで瞬時に計算できるのだから夢のような機械だ。
思い返すと、このころから『この問題を解くのに実用上問題なく計算するには有効数字何ケタで計算すればいいか』という課題を誰も考えなくなったのではないかと思う。というよりは考える必要がなくなったのだ。
何かを計算するときに筆算が主体の時代は、結果の有効数字を1ケタ増やそうとすれば計算時間がその都度何倍もかかるので、ムダにケタ数の多い計算は避けるべきだし第一そんなことをやっていたら身が持たなかった。計算前に『どこまで計算すれば実用上十分か』を見極めるのは自らの身体と精神の健康を保つためにも鉄則だった。
これが、どんなに安い電卓でも8ケタ瞬時に求まる時代になると、そんなことを見極めること自体が『時間のムダ』になる。
天文学専攻だった筆者は大学時代に買った渡邊敏夫氏の『數理天文學』という本をまだ持っている。まずは『誤差論』から始まり、主に惑星や彗星の軌道計算を行う計算者の心得として、
『…計算者は器用でなければならぬ。而して仕事に對(対)しては、落付きと忍耐力を必要とする。殊に計算の初歩者にとつては、このことは重要である。しかも、細心で大膽(大胆)でなければならない…』
等々、何やら修験者の書いた精神修養の書物と思われても不思議でないくだりもある。このぐらいの覚悟がないと以前の『計算者』はやっていけなかったのだ。
デジタル化が叫ばれて久しいが、人間の認識はアナログ的だ。人間が認識する最も原始的でデジタル的なものというと『物の数』だが、専門家の研究によれば、人間が瞬時に認識できる物の数は3つかせいぜい4つまでらしい。これを超すと『数える』必要が出てくる。
サイコロのように点?の配置が固定化していれば5とか6でも瞬時に判別できるが、これは数を認識しているわけではなく、模様のパターンを覚えているだけだ。
人類が絶滅を免れて今後数百万年のオーダーで進化すれば瞬時に10くらいの数まで認識できる『超人類』が登場するかもしれないが、数千年や数万年程度で人間の生物学的な能力が劇的に進化することはないだろう。
生物の器官や能力の進化・退化はその種にとっての要不要で決まるという主張は『ラマルキズム』(獲得形質の遺伝を認める立場)と呼ばれて批判の的になるが、一概には否定できないとする説もある。
こうした瞬間的な人間のデジタル認識能力が人類にとって不要になってきているのであれば、むしろ徐々に退化していくのかもしれないと個人的には思う。もちろんそれも数万年単位以上での話だ。
自動車の計器類もデジタル化が進んだが、最も重要なスピードメーターは今も圧倒的にアナログが多い。中にはデジタル画像であえて疑似アナログのスピードメーターを表示するものもある。自車のスピードは瞬時に確認できなければならないので、これなどは量的なものはデジタルよりアナログの方が人間が認識しやすいことの証左だ。
こんな例を出さなくても会社員の方なら上司や顧客への報告などでグラフを使ったことがあると思う。グラフはアナログ的なので直感的にその量を把握できるからだ。
同じスペースならデジタルの方が情報量は多いはずだが、数字だけでは人間が直感的にその意味を把握できないことが多い。アナログの方が『脳にやさしい』のは確かなようだ。
長くなりすぎるので、続きはいずれ書こうと思う。
脈絡のない話を最後まで読んでいただき、ありがとうございました。