たとえばある日、従業員が痛そうに足を引きずって出社したとする。
「あれ? 足どうしたの? 大丈夫?」
「あ、すいません。昨日帰りにちょっと足首をひねったみたいで。大したことないと思っていたんですけどだんだん腫れてきて…、朝、湿布貼ってきたのでじきに治ると思います。」
「病院で診てもらった方がいいよ。」
「ありがとうございます。少し様子を見てひどいようでしたらそうします。」
結局、腫れが引かないのでこの方は帰りに病院へ寄る。
「足をくじいたんで診てもらいたいんですが。」
「分かりました。マイナンバーカードか保険証をお願いします。」
「これ、保険証です。」
「あちらの待合室でお待ちください。」
「今日はどうされました?」
「昨日、道を歩いてて足をひねりまして…」
「ああ結構腫れてますね。一応レントゲンを撮ってみましょう。」
「骨には異常ないようです。ただ靭帯を痛めたようですので湿布処方しておきます。1週間後にまた来てください。」
結局この方は隣の薬局で湿布をもらい、1週間後に通院したときには軽快していた。病院と薬局での支払いはしめて6,000円だった。
どこにでも転がっていそうな話だ。
しかし、ここまでの経過はかなり問題をはらんでいる。この上司の対応も問題だ。心配しているのは分かるし心配しないよりはマシだが心配するだけではダメだ。
『昨日帰りに』ということは通勤途中だ。ということは『通勤災害』の可能性が高い。『可能性が高い』ともったいをつけるのは、これだけでは断定はできないからだ。
たとえば一般的には、
① 会社を出たとたん、玄関先でひねった
のなら業務災害になるし、
② 会社の敷地を出て歩道と車道の段差でひねった
のなら通勤災害だし、
③ 帰宅途中で旧友と会ってカラオケに行くことになり、その店先でひねった
のなら私傷病だ。
今はその根拠は省くが、『昨日帰りに』と言われたら上司としては①~③のどの場合にあたるのか状況を確認しなければならない。それによって対処の仕方が全く変わってくるからだ。
もちろん、不必要なことまで聞くとパワハラの一種『個の侵害』にあたることがあるので、③のように『私傷病』とハッキリしたのなら、それ以上聞く必要はない。
ここでは、最も可能性の高い『通勤災害』だったとする。
通勤災害は健康保険の適用外
・ 業務災害はもちろんダメ
健康保険法1条は
『この法律は、労働者又はその被扶養者の業務災害(労働者災害補償保険法第七条第一項第一号に規定する業務災害をいう。)以外の疾病、負傷若しくは死亡又は出産に関して保険給付を行い、もって国民の生活の安定と福祉の向上に寄与することを目的とする。』
とされ、ここで出てくる『労災保険法7条1項1号』は
『労働者の業務上の負傷、疾病、障害又は死亡(以下「業務災害」という)に関する保険給付』
となっていることから、労災保険の対象となる業務災害に健康保険が使える余地はない。よって保険証は使えない。労災保険の保険証というものは存在しない(『特別加入』の場合はこれに相当するものがある場合もある)。ここまではよく知られている。
・ 通勤災害もダメ
これに対して通勤災害は『労災保険法7条1項3号』に規定されており、業務災害ではない。従って『健康保険法第1条』では排除されない。第一、通勤災害なら会社(事業主)に賠償責任は生じない。そのへんの違いはあるので、
『通勤災害も労災保険でみてもらえるのは知ってるけど、手続きも面倒だし、健康保険を使ってもいいんじゃないの?』
という誤解もあるようだ。
通勤災害を健康保険から排除する根拠は、健康保険法55条の
『(健康保険の)被保険者に係る療養の給付又は…の支給は、同一の疾病、負傷又は死亡について、労働者災害補償保険法、国家公務員災害補償法又は…の規定によりこれらに相当する給付を受けることができる場合には行わない』
にある。つまり通勤災害を含めて、
『労災保険の対象になる傷病は、健康保険では面倒みません』
ということだ。
健保 ➡ 労災 の切替えはなかなか大変
さて、冒頭の例に戻るが、1週間後来院したとき、
「先生、もう大丈夫そうです。ちょっと会社帰りにひねっただけであんなに腫れると思いませんでした。丁寧に診ていただいてありがとうございました!」
「今、『会社帰り』って言いました?」
というやり取りがあったとすると、このあとどういう経過をたどることになるのかは、筆者に病院勤務の経験がないので正確なところは分からない。
・ 健康保険は黙っていない
ここで、この方が支払った金額が3割負担で6,000円ということは、医療費は2万円かかっていることになる。
協会けんぽなり健康保険組合なりにすれば、労災保険から『通勤災害』として支出されるべき金額を1万4000円不当に払わされたことになるので、これは放置できない。
こうして一旦正式ルートに乗っかれば、健康保険から労災保険への移行が促される。こうなると会社も無関係ではいられない。この医療費は『通勤災害として国(監督署)に請求』することになるので、この場合(退勤時)だと、
・ 通勤災害の申請で、報告すべき状況
業務災害の場合に必要な災害発生時刻・場所・現認者などの他に、
・ 通勤の種別(どこからどこへの移動か)
・ 就業終了の年月日と時刻・就業の場所を離れた年月日と時刻
・ 災害時の通勤の種別に関する移動の通常の経路、方法及び所要時間並びに災害発生の日に就業の場所から災害発生の場所に至った経路、方法、所要時間その他の状況
等を、その通勤経路図と共に詳細に記載する必要がある。ハッキリ言って、業務災害よりもさらに詳細に状況を聞き取らなければならない。
・ 会社には証明の義務
労災保険法施行規則23条には、
1 保険給付を受けるべき者が、事故のため、みずから保険給付の請求その他の手続きを行うことが困難である場合には、事業主は、その手続を行うことができるように助力しなければならない。
2 事業主は、保険給付を受けるべき者から保険給付を受けるために必要な証明を求められたときは、すみやかに証明をしなければならない。
という規定があるので、通勤災害においても手続きの協力や証明は事業者の義務だ。「忙しいから自分でやってよ。」というわけにはいかない。冒頭の上司の『心配』が口先だけかホンモノかがここで試される?
最終的には自己負担分は返されるが…
最終的にはこの場合、医療費2万円のうち健康保険から支出された1万4000円をいったん健康保険に返し、その領収書と最初の(健康)保険診療の領収書を添付して国(監督署)に請求し、後日医療費全額2万円が支払われることになる。
結果的には差引6,000円が戻されることになるが、いったん医療費10割を払うことになるので、当初の『自己負担』額が高額なら、一時的とはいえかなり大変な事態になる。
もしレセプト提出前で切替えが間に合えば、その段階で労災保険扱いにしてくれる場合もある(労災指定病院・薬局の場合)。
いずれにしても『通勤災害は健康保険の対象外』だということは労使とも頭に入れておいて、初めからこれに沿った対応をしていないと、なかなか面倒なことになるのは確かだ。
※ メインタイトル変更
通勤災害に保険証は使えない ➡ 通勤災害に保険証(健康保険)?