業務上疾病としての精神障害
労災保険法12条の2の2は
労働者が、故意に負傷、疾病、障害若しくは死亡又はその直接の原因となった事故を発生させたときは、政府は、保険給付を行わない。
と定める。ここで『故意』というのは『結果の発生を意図した故意』と解釈される。(1965.7.31基発901号)
ここでまず頭に浮かぶのは自殺の場合だ。自殺は自らの意思で命を断ち切るものなので当然『結果の発生を意図した意図』だろう。それなら労災の対象ではないはずだが。
・ 業務による精神障害が原因の自殺は労災認定され得る
これについて厚労省は1999年9月14日、
業務上の精神障害によって、正常の認識、行為選択能力が著しく阻害され、又自殺行為を思いとどまる精神的な抑制力が著しく阻害されている状態で自殺が行われたと認められる場合には、結果の発生を意図した行為には該当しない。
とした。つまり、その場合は『故意』とはみなさないので、
『自殺が労災と認められるためには、業務上の精神障害によるものであることが必要条件』
ということだ(十分条件ではない)。
話の順序としては、業務が原因で精神障害が発生し、それによって自殺した場合は労災給付(遺族補償年金など)の対象になり得る…ということになる。
業務上の精神障害については『心理的負荷による精神障害』として、労基法施行規則別表に規定される11種の『業務上の疾病』の1つの例として挙げられている。
業務上の疾病
以下が、その業務上の疾病の種類と例だ(一部省略してあります)。
疾病の種類 例
① 業務上の負傷に起因する疾病
② 物理的因子による疾病 騒音性難聴
③ 過度の負担がかかる作業様態に起因する疾病 振動障害
④ 化学物質等による疾病 酸素欠乏症
⑤ 粉塵を発散する場所での業務によるじん肺症と合併症 じん肺症
⑥ 細菌・ウイルス等の病原体による疾病 医療行為によるコロナ感染
⑦ がん原生物質にさらされる業務による疾病 放射線による甲状腺がん
⑧ 過労ほか血管病変を著しく増悪させる業務による疾病 心筋梗塞
⑨ 心理的に過度の負担を伴う精神の疾病 心理的負荷による精神障害
⑩ ①~⑨の他、厚生労働大臣の指定する疾病 気管支肺疾患
⑪ その他、業務に起因することの明らかな疾病
心理的負荷による精神障害の要件
この第⑨号の『心理的負荷による精神障害』が認められるためには、
① 対象疾病(精神障害)を発症している
② 対象疾病の発症前おおむね6ヶ月以内に、業務による強い心理的負荷が認められる
③ 業務以外の心理的負荷及び個体側要因により対象疾病を発症したとは認められない
ことが必要だ。
・ 心理的負荷が『強』でないとダメ
この3つのうち、①(精神障害の発症)は当然としても、②の『心理的負荷』の前の『強い』をゴチックにしたのは訳がある。
厚労省は精神障害に至る様々な『心理的負荷』を『強』・『中』・『弱』に分類して判定したうえで総合評価するので、『心理的負荷はあったが、総合的に「中」だった』ということになると『心理的負荷による精神障害』とは認められないのだ。
③は、前段の『業務以外の心理的負荷』、たとえば失恋や家庭不和などによる精神障害が対象にならないのは当然だが、後段の『個体的要因』による発症は認めないというのはつまり、その方が発した精神障害について、その方の要因による発症なら認めないということだ。
・個人の耐性は判断基準に入らない
個人的な話で恐縮だが、筆者が小学生のころ学校の裏山に友達と『探検』に行った。木のツタでみんなでターザンごっこをして帰ってきたが、翌日学校に行くと一緒に遊んだ筆者以外の全員が『うるし』でかぶれていた。たまたま筆者だけがうるしにかぶれない体質(鈍感肌?)だったらしい。
このように、外部的な要因が同じでも症状が出るかどうかは個体側の違いによる部分も大きい。
労災関係でいうとたとえば、かなり騒音の激しい場所で同じように働いていて、たまたま難聴にならなかった人がいたからといって難聴になった人の『業務起因性』が否定されることはない。『個体側』に個人差があるのは当たり前だからだ。
『心理的負荷』についても、同じ程度の『心理的負荷』を受けて精神障害を患う方もいればそこまでは行かない人もいるだろう。ここで精神障害を発症した場合、必ず労災認定されるかというとそうはならない。難聴の労災認定とは違うのだ。
ストレスー脆弱性理論って何?
『心理的負荷』に対する厚労省の基本的スタンスは『ストレス―脆弱性理論』による。『脆弱性』というのは、要するに精神的な『弱さ』だ。この理論は、精神障害の成因について、
対象疾病の発病に至る原因の考え方は、環境由来の心理的負荷(ストレス)と、個体側の反応性、脆弱性との関係で精神的破綻が生じるかどうかが決まり、心理的負荷が非常に強ければ、個体側の脆弱性が小さくても精神的破綻が起こるし、逆に脆弱性が大きければ、心理的負荷が小さくても破綻が生じる
というもので、まあ常識的な考え方だ。わざわざ名前を付けるほどの理論なのか?と思う方も多いだろう。これを頭から否定する方はあまりいないのではないか。認定に当たって厚労省は『認定要件における基本的考え方』というのを出していて、それによれば
『同種の労働者』の受け止めが基準
この場合の強い心理的負荷とは、精神障害を発病した労働者がその出来事及び出来事後の状況が持続する程度を主観的にどう受け止めたかではなく、同種の労働者が一般的にどう受け止めるかという観点から評価されるものであり、「同種の労働者」とは、職種、職場における立場や職責、年齢、経験等が類似する者をいう。
とされ、その心理的負荷の総合評価が『強』の場合のみ認定要件②を満たすこととした。
つまり、その心理的負荷によって本人が大変な思いをして精神障害を起こしても、平均的『同種の労働者』にとってその心理的負荷が『大したことはない』ものであれば認定しないということだ。
また、『同種の労働者』にある程度の幅は認められるが、性別・既往症・障害・成育歴のような個人的事情は基本的には考慮しない。
だから、本人がどれほど大きな心の傷を負ったかを力説してもあまり意味はない。
これについては賛否両論あるところだろうが、行政的には現在の認定基準はこの考え方がもとになっている。
教育現場における『いじめ』の定義『(一定の行為によって)対象となった児童等が心身の苦痛を感じているものをいう』などとは扱いが全く違うのだ。
強い心理的負荷
さてこの心理的負荷は厚労省『業務による心理的負荷評価表』にまとめられているので、必要な方はそちらを参照してもらった方が間違いない。とにかくこの負荷が総合的に『強』でなければならないので、個別の事態について『強』となるものを示すとたとえば次のようになる(省略して書いてある。)。
時間外労働についても多く触れられているが、それについては次回扱う。
・ 生死にかかわるケガをした・ケガを負わせた・死亡させた
・ 顧客や取引先から重大な指摘を受け、困難な調整にあたった
・ 上司等から極度のパワハラを受けた
・ 感染症等による死の恐怖を感じながら業務を継続した
等が心理的負荷『強』の例として挙げられている。
予防が第一
今回の話題は、当事者にとっては大変な問題だし、いったん起こってしまえば取り返しがつかない。予防が第一なのは当然で、社労士の主戦場もまさにそこになる。
業務によると思われる自殺事件が起こったがうやむやになりそうになり、敢然と立ちあがった1人の弁護士が証拠を丹念に拾い集め、妨害する幾多の敵と戦いながらついに労災認定の勝利判決を勝ち取った…というのは確かにドラマになりそうだが、失われた命は戻らないし、関係者の心労も負担も莫大だ。
これに対して、業務による精神障害等の事故がすぐに起きそうな職場で、敢然と立ちあがった1人の社労士が社内規定や仕組みの問題点を丹念に改善し、会社や社員と話し合いながらついに事故を未然に防ぎ、皆が生き生きと働ける会社になった…というのは、ドラマにしてもだれも見ないだろう。全然面白くなさそうだ。
しかし、関係者にしたらこちらの方が100万倍もいいに決まっている。たまにこの『心理的負荷評価表』を見て《うちの会社は大丈夫かな…》と考えるのも意味があるかもしれない。